5月5日は「こどもの日」ですね!
「端午の節句」とも呼ばれるこの日は、国民の祝日でありゴールデンウィークの中の1日でもあるため、全国各地でこどもの日にちなんだイベントが催され、毎年沢山の人で賑わっていますよね。
男の子のいるご家庭は、こどもの日には兜やこいのぼりを飾って柏餅やちまきを食べたり、地域によっては菖蒲湯に浸かったりして一日を過ごすという事もあるかと思います。
花粉の飛散もピークを過ぎ気候も暖かくなって来て、本当に穏やかで過ごしやすい時期ですよね!
さて、そんな「こどもの日」ですが…
「こどもの日にどうして兜を飾るのでしょうか?」
「鯉のぼりを飾る意味とは?なぜ柏餅やちまきを食べるのでしょうか?」
「菖蒲湯に浸かる事に何か意味があるのでしょうか?」
そもそも「こどもの日」の由来って何なのでしょうか?
何となく「男の子の健康と成長を願う日?」という感じで認識している方も多いと思いますが、端午の節句や行事の理由をちゃんと考えたりする機会はあまり無いのではないでしょうか?
今回のコレドウ?は「こどもの日の由来と行事の意味」についてです。
意外と知られていないこどもの日の由来や兜やこいのぼりを飾る意味、柏餅やちまきを食べる、菖蒲湯などの風習について詳しく解説します!
これで子ども達に突然「こどもの日ってなあに?」「なんでこどもの日に柏餅を食べるの?」なんて聞かれても大丈夫!!
ぜひこの機会に、こどもの日や端午の節句のルーツや歴史を考えてみませんか?
それでは、早速始めましょう!!
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Contents
「こどもの日」と「端午の節句」
5月5日の「こどもの日」は「端午の節句」とも呼ばれています。
それぞれが別名のように感じますが、実は5月5日が「こどもの日」になったのは戦後の事です。
古来からあった男の子の健康や成長を願う「端午の節句」が5月5日に行われていましたが、戦後に国で祝日を決める際、「こどもの日」を5月5日に、という多くの国民の声を反映させ、制定しました。
では、ここからは双方の祝日の由来についてもう少し詳しく見て行きましょう。
こどもの日の由来
「こどもの日」が制定されたのは、第二次世界大戦後のこと。
1948年(昭和23年)7月20日に国民の祝日に関する法律(こくみんのしゅくじつにかんするほうりつ)が公布・即日施行されました。
戦前にあった「休日ニ関スル件」という祝日に関する法律を廃止し、それまでにあった祝日を見直したり廃止した上で、新たに国民の祝日を制定し直したのです。
この時に制定されたいくつかの祝日の中に、5月5日のこどもの日がありました。
こどもの日が5月5日に決まったのは、先程も触れましたが、もともと男の子の健康や成長を願う「端午の節句」が5月5日に行われており、その日を「こどもの日」に、という多くの国民の声を反映させたためです。
その上で、主旨を以下のように定めました。
こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。
出典:内閣府「国民の祝日」について
お祝いの対象は「こども」です。もともとは5月5日は男の子のお祝いの日だったわけですが、「こどもの日」を祝う上で性別は関係ありません。女の子もお祝いの対象です。
そしてこどもの日は、産んでくれたお母さんに感謝する日でもあるなんて…今まで知らなかったのですが、とても素敵な日ですね。
ちなみに「こどもの日」は英語で『Children’s Day』と言います。わかりやすいですよね!
祝日は『National Holiday』と言います。
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端午の節句の由来
端午の節句の由来を紐解くと、なんと今から約2300年前の中国にまで遡ります。
時は、春秋戦国時代。小説「三国志」や最近映画化された人気漫画「キングダム」の舞台となった時代です。
楚(そ)という国の王の側近に屈原という者がいました。屈原は剛直で愛国心が大変強い人物であり、政治家としても詩人としても素晴らしい才能を発揮していましたが、楚の西に位置する秦の国の謀略や周りの嫉妬から左遷されてしまいます。
その後、ついに楚の首都が秦によって陥落したと知った屈原は祖国の将来を悲観して「離騒(りそう)」という強烈な愛国の情を綴った長編叙事詩を残し、汨羅(べきら)という川に身を投げてしまいました。
国民から信頼が厚かった屈原。その死を知った民衆は小舟で川に急ぎ、魚が屈原の亡骸を食べたりして傷つけないよう、魚に米の飯を食べさせるため竹筒に米を入れて汨羅の淵に投げ込みました。この竹筒に入れた米が後の粽(ちまき)の原型と言われています。
それからというもの、屈原の命日である5月5日に川に粽を投げ入れる供養祭が行われるようになり、やがてそれが中国全土に広がり国の安泰を願う風習へと変化しました。
端午は邪気払いの日
中国では唐の時代に「暦法」が定められ、その際に季節の変わり目を5つに区切り「五節句」とすることにしました。五節句は以下の通りです。
- 1月7日「人日の節句」
- 3月3日「上巳の節句」
- 5月5日「端午の節句」
- 7月7日「七夕の節句」
- 9月9日「重陽の節句」
この五節句、月日が全て同じ奇数ですよね?
これは、中国に古来から伝わる「陰陽」(万物は「陰」と「陽」に分けられる)という思想に基づいており、奇数は「陽」とされていましたが、上記のように奇数=陽が重なると「陰」になってしまうと考えられていました。
「陽」が重なり「陰」となる五節句の日はどれも「悪日」とされ、病や邪気に侵されてしまうとの考えから、それを防ぐために季節ごとの邪気払いの行事が行われていました。
※1月だけ例外で、1日は元旦で別格とされたため7日の「人日」を取り入れています。
この五節句の中の「端午」とは「牛の月=5月の最初の牛の日」という意味。
「端」は「始め・最初」という意味であり、「端午」は5月の最初の午の日を表していましたが、中国語で「牛」と「5」が同じ「ウー」という発音であることにちなみ、端午=5月5日になりました。
端午当日は病や邪気払いの為に野で菖蒲や蓬などの薬草を摘み、病除けのために色鮮やかな絹糸を肩に巻き、蓬で作った人形を飾り菖蒲を門に掛け、菖蒲の葉を酒に浸した「菖蒲酒」を飲んだりして過ごしました。
そして後に、屈原の物語と端午の邪気払いが合わさって中国の端午の節句の風習となったのです。
中国の風習とのハイブリッド?!日本の「端午の節句」の由来
日本では、もともとあった日本の風習と中国から伝わった端午の節句の行事が融合し、独自の発展を遂げて現在のような形になりました。
では、どのような流れで発展していったのかをもう少し詳しく見て行きましょう。
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端午の節句=女性の為の行事 だった?!
農耕民族である日本人にとって一番重要なイベントは春に行う「田植え」と秋の「米の収穫」でした。
当時の農民の間には山の神が春、稲作が始まると家や里へ下って田の神となり、農民達の作業を見守り秋に稲が豊作をもたらすよう助けてくれるという信仰があり、毎年田植えが始まる春には田の神を迎え、収穫の秋には山へ戻る神を見送るための祭りを行っていました。
田植えの始まる5月に行われていた春の祭りには、山の神を迎えるための神事があり、その時に重要な役割を担うのが「早乙女(さおとめ)」と呼ばれる若い女性達でした。
神事では、専用の晴れ着である田植え衣装を着けた早乙女達が田植え歌などに合わせて田植えを行い、山の神をお迎えしたのです。
このように神に奉仕する神役であった早乙女達は、神事の田植えを行う前に神様のために仮小屋や神社などにこもって身の穢れを祓い清める習慣があり、これを「五月忌み」と言いました。
この「五月忌み」の日がちょうど5月5日だったことから、端午の節句は長く女性の厄祓いの日とされていたのです。
中国からの文化伝来
端午の節句の風習が中国から日本へ伝わったのは、平安時代と言われています。
しかし最初は宮中の貴族の間だけの行事という位置付けで、民間にはまだ広まっていませんでした。
端午の節句当日、宮中では天皇の住居である内裏(だいり)に菖蒲の葉を飾り、菖蒲で作った「菖蒲鬘(あやめのかつら)」と呼ばれる飾りを冠にかけた天皇と群臣が集まり、菖蒲と蓬を盛った輿(こし)が献上され、菖蒲と薬玉(くすだま)が群臣へ与えられました。
薬玉とは麝香(じゃこう)、丁子(ちょうじ)などの香料を薬として袋に入れてから菖蒲や蓬を結び付け、五色の糸を長く垂らした飾り玉で、邪気を払い、寿命を延ばす効果があるとされていました。その後で「節会(せちえ)」と呼ばれる宴や馬上から弓で的を射る「騎射(うまゆみ)」の行事が催されたりしました。
その後宮中貴族達だけで行っていた端午の節句の行事は、やがて民間へと広がって行きます。
そして、時代背景や日本の文化とが融合して日本独自の風習へと変化し、現在のような形へと発展して行きました。
ここからは、日本で独自に発展した端午の節句の風習とその由来を見て行きたいと思います。
武家社会の台頭で端午の節句は「男の子の節句」へ
鎌倉時代から室町時代にかけて、政治の中心が朝廷から武士へと移り変わると質実剛健な「武家文化」が栄えるようになりました。
それに伴い端午の節句の風習に当時の世相も加わって、邪気払いや稲の豊作を祈る風習から「男子の成長と健康を願う風習」へと変化したのです。
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菖蒲=尚武 武士の精神を磨く節句
鎌倉時代には「菖蒲」の読みが、武道・軍事などを尊ぶという意味の言葉「尚武」に通じることから、武士の間でも走る馬の上から鏑矢(かぶらや)で的を射る「流鏑馬(やぶさめ)」の競技が行われるようになりました。
また、菖蒲はその葉の形が刀剣を想わせる鋭い形であることから、妖魔を斬り払う力を持つとされ、これを「菖蒲刀」として子供たちが地面を打ち合う「菖蒲打(しょうぶうち)」という遊びへと発展したのです。
室町時代に入り政治の中心が完全に武士に移ると、端午の節句は「男児の立身出世・武運長久」を願う行事へとさらに発展していきました。
この日武士の家庭では、虫干しをかねて先祖伝来の鎧や兜を奥座敷に、玄関には旗指物(のぼり)を飾り、家長が子供達に家訓等を講じたりしました。
邪気払いを中心とした行事だった端午の節句の意味合いが、菖蒲=尚武の語呂合わせで勇ましい男子の節句へと様変わりして行ったのですね。
江戸時代には鯉のぼりや柏餅の風習も登場
江戸時代に入ると端午の節句の風習が武家から民間にも浸透し、さらに発展を遂げます。現代の端午の節句の原型が出来たのもこの頃です。
今やこどもの日の行事ですっかりおなじみの風習ですが、一つ一つに意味が込められています。一体どんな意味があるのでしょうか?詳しく見て行きましょう。
鯉のぼり
江戸の裕福な商人の家庭の間では、武家に対抗するかのように豪華な武具の模造品を飾り、旗指物を真似て魔除けの意味があった五色(青・赤・黄・白・黒)の吹き流しを飾りました。
その後中国の故事「登竜門」の中で、竜門山を切り開いてできた険しい急流の「竜門」を鯉だけが登り切って竜になったというエピソードに倣い、男子の立身出世を願って鯉の形をした「鯉のぼり」を一緒に飾るようになりました。
「受験の登竜門」などと普段耳にする登竜門の故事が、鯉のぼりのヒントになっていたなんて驚きですよね。
柏餅
柏の葉は新芽が育つまでは古い葉が落ちないことから、江戸の武家では「子孫繁栄(家系が途切れない)」の縁起をかつぎ柏の葉で餅を包んだ「柏餅」を端午の節句に食べる風習も生まれ、次第に庶民へも広がって行ったのです。
ちなみに、柏餅を食べる習慣は東日本中心に多く見られるのに対し、西日本では粽(ちまき)を食べるという地域が多いです。
西日本では、最初に平安時代に中国から伝来した粽を食べる風習が浸透しているからと考えられます。また粽や柏餅以外のものを食べる地域もあります。
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菖蒲湯
江戸時代には銭湯が登場し、またたく間に庶民の文化として広まりました。
それに伴い銭湯では端午の節句に「菖蒲湯」を行うようなり、「菖蒲湯に入ると病気にならない」「菖蒲湯に入れば夏を元気に過ごせる」と大人気となり、端午の節句に菖蒲湯に浸かるという習慣が庶民の間にも浸透しました。
今でも、銭湯では5月5日に菖蒲湯を行っていますよね。江戸時代の風習が今も続いているなんて何だか嬉しい気持ちになりますね。
※菖蒲湯の由来や効能、効果的な入り方等の詳しい情報は下記の記事も是非参照下さい。
↓ ↓ ↓
こどもの日(端午の節句)は菖蒲湯に入ろう!その効能・由来とは?
このように平安時代に中国から伝来した端午の節句の習慣は、時代背景や文化の発展に伴って日本の文化と融合しながら、段々と発展して行ったのです。
さいごに
いかがでしたか?
今回は、5月5日のこどもの日の由来や端午の節句の行事の意味を見てきました。
端午の節句に鎧兜や鯉のぼりを飾り、菖蒲湯や菖蒲酒を楽しみ粽や柏餅などを食べて過ごすというこのスタイルが、長い年月と時代背景を受けて変化した結果なのだと思うととても感慨深いですね。
また、一つ一つにちゃんと由来と意味合いがあると言うこともわかりました。
また、端午の節句という観点からは男の子の節句という面が色濃いですが、こどもの日でもあると考えると、女の子も一緒にお祝いできるというのは嬉しいですね!
「粽や柏餅を何故食べるか知ってる?」「鯉のぼりにはこんな由来があるんだよ」などなど、ぜひ子どもたちと会話しながらこどもの日を過ごしてみませんか?
きっと端午の節句がより意味深く感じられるかも知れませんね??
では今回も、最後までお読みくださり、ありがとうございました。